このページの先頭



ここから共通メニュー

共通メニュー

ホーム > 2006年ドイツW杯 > コラム > 西村幸祐


ここからページ本文

西村幸祐コラム

バックナンバー一覧

2006年06月26日

日本代表、失敗の研究(1)・・・バブル崩壊後から全ては始まる

nakata.jpg

 <ドルトムントの屈辱>…これが今後の日本サッカーのキーワードになる。日本代表がブラジル代表から受けた屈辱を、日本サッカー界はそのまま受け入れるしかない。それが、現在の日本サッカーの位置そのものだからだ。

 序盤からブラジルは華麗なパス回しで日本ゴールに襲いかかる。例のごとく川口の神憑(がか)り的なスーパーセーブの連続で失点を防いでいたが、神憑りが長時間持続するわけはなかった。
 それでも前半34分、稲本の大きく左に振るサイドチェンジからサントスがボックス前にドリブルで切れ込み、DF背後へ絶好のパスを供給した。オフサイドを回避したギリギリのタイミングでボックス内左側に進入した玉田が左足を一閃すると、今大会唯一の日本のシュートらしいシュートがブラジルネット上部に突き刺さった。日本がドイツ大会で見せた、たった1つのファインゴールだった。

 川口の神通力は45分は持たなかった。前半ロスタイムに、ロナウジーニョがボックス手前から右サイドでフリーになっていたシシーニョへ。難なく上がったセンタリングにロナウドがフリーでヘディングシュートを叩(たた)き込んだのだ。中沢は全くロナウドをマークできなかった。最低でも2点差で勝たなければならないという状況に追い込まれた日本にとって、ロスタイムの同点ゴールは大きなダメージとなった。ハーフタイムで引き上げる選手たちのほとんどが下を向いていたことからも傷の深さが窺われる。
 この時、中田が大声で悔しさをぶちまけていたが、川口と中田だけがドイツ大会を通して、感情と闘志を剥(む)き出しにしていたのも象徴的だった。

 <ドルトムントの屈辱>が、日本サッカー界に与えた衝撃は想像以上のものがあるはずだ。世界の強豪にとってW杯1次リーグは調整に過ぎないのだが、途中でGKまで替えてしまうブラジルの仕打ちは、嘲笑的なものでなく、むしろ日本を失意と憤怒のどん底に突き落とすことで自省を求める慈悲深いものだったのかも知れない。

 日本の初戦、オーストラリア戦後のコラムで私はこう書いた。

 「『規律の中の自由』でなく『自由の中の規律』がジーコのサッカーなのだから、日本人のあるがままの実力が試されているのが、今回のW杯なのだと思うしかない。」

 この言葉に付け加えられる言葉は、規律、つまりチームディシプリンを前提に置かず、戦術と組織プレーを軽視したジーコ監督のサッカーが、なぜ4年間続けられて来たのかという問いに答えるものになる。それが、日本サッカーの<失敗の研究>の第一歩になるからだ。結果的に日本のW杯史上最悪の3試合が記録として残された。
 ジーコは日本サッカーにとって大恩人の1人であることは確かだが、それとドイツでの日本の大失敗と<ドルトムントの屈辱>は、無関係に論じられなければならない。選手個人の<個>を優先し、個性とクリテイティビティ(※1)を活かしたサッカーを展開できるのは、世界中でもブラジル以外は見当たらない。もちろん、そんなブラジルにも組織の約束事は存在する。
 今大会絶好調のアルゼンチンも、リケルメという古風な佇(たたず)まいを見せる中盤のコンダクターの個性が、堅固な守備ブロックや突破力のあるFW陣と連動する組織プレーでベスト8に進出した。24日に行われたアルゼンチン対メキシコ戦は大会屈指の好カードとなったが、メキシコの個人技と組織プレーのコラボレーションも見事だった。

 ジーコが日本代表に求めた、選手一人ひとりの自由な個性の競演で勝利するサッカーは、無い物ねだりだったわけだが、そんなことはジーコ就任時から囁(ささや)かれていた。
「ジーコが日本人に託す夢は美しいロマンティシズムだが、それに日本人が応えられるかどうかは別である」という主旨の文章を2年前の予選開始時に書いたことがある。と、同時に川淵三郎氏のサッカー協会会長就任後、川淵氏とジーコがメディアにとってアンタッチャブルな存在になってしまったことにも触れた。
 代表監督選出に携わる技術委員会がほとんど機能していないという疑問もあった。つまり、川淵キャプテンの「ジーコで行こう」という決断に誰が責任を取るのかという重要な問題が最初に問われなければならないのだ。

 以前からドイツ大会に期待する関係者の声は多かった。94年のU-17世界選手権から世界と戦い、世界を知ったアトランタ五輪世代を代表する中田英と、99年のワールドユースで準優勝したシドニー五輪世代を中心とする、いわゆる<黄金世代>が主力となるW杯だったからだ。
 「ドイツ大会ではベスト8も狙える」と取材仲間の間で語り合っていたのは8年前のフランス大会の頃だった。日本サッカーが、技術と戦術的な質ではアジアで1ランク上のトップというのが、当時の偽らざる根拠だった。それは、現在でも同じで、選手個人の技術、Jリーグのレベルがアジアでトップクラスであることに変わりはない。だからこそ、<失敗の研究>が重要なのだ。

 つまり、それだけの資質を伸ばすことができず、それだけの環境を向上させることができなかった原因究明なのだ。昔から「心・技・体」と言われるが、技術があっても魂がこもってなければ、いい結果は生まれない。「心・技・体」がそろって個人能力になり、その個人の集積が戦術として機能する組織が必要となる。小学校の運動会でも学級崩壊したクラスはいい成績を残せない。
 組織を機能させる戦術を考慮しない監督が、個人の能力も発揮させることができなかったのだから、その監督を選んだ会長に責任があるのは当然のことなのだ。
 なぜ、ナイジェリアのワールドユースで準優勝した小野伸二を中心とするシドニー五輪世代が<黄金世代>の中核になれなかったのか? あの時、指揮を取ったトルシエのコンセプトがどう遺産となって保存されているのか? 2002年日韓大会で何を学んだのかということがあらためて問われなければならない。

 と同時に、<黄金世代>に続く世代が育っていないという現実も待ち受けている。紆余曲折を経ながら、Jリーグは世界でも稀有な成功をし、成長し続けている。1部18チーム、2部13チームのプロリーグを擁する日本は、サッカー強国の一員と言ってもいいのだが、代表チームがそれに見合う成績を残せなかった。10年前に誰もが想像もできなかったようなプロリーグが存在するわけだが、この右肩上がりの成長は本当のものなのか、それともどこかに無理はないのか、制度疲労が生じていないのか、という点検も必要になる。個人技術の向上も、ナイジェリアのワールドユースがピークではなかったのか、という見直しが急務だ。

 24日に帰国した川淵キャプテンが記者会見でこう語った。
「試合内容そのものについての分析は、技術委員会が分析をしてリポートを出すので、私自身の感想はここでは控える。フランス大会に出たときは1回目の出場だったが、まだ真剣に戦うだけの体制がなかった。今回は実力を発揮できるか試される、真の意味でのW杯であったような気がする」
 だが、技術員会のレポートがどれだけ有効なものになるか大いに疑問だ。なぜなら、4年前の日韓大会後、技術委員会のレポートがどのようなものであっても、ジーコ監督の就任が決められたという経緯があるからだ。

 この会見で川淵キャプテンは次期監督として千葉のオシム監督と交渉中であることを漏らしてしまった。うっかり口に出てしまったのだろうが、たとえ意図的リークであろうと、「史上最大の失言」であろうと、その結果、オシム氏の代表監督意就任が流れれば、その損失は計り知れない。いったい、誰がどう責任を取るのであろうか?
 もし、意図的リークだとしたら、明らかに自らの責任問題とサッカー協会会長職を巡る問題からメディアの関心をそらす演出である。つまり、意図的か失言かどちらにせよ、川淵キャプテンの責任は免れないのだ。

 選手も24日に帰国したが、成田に待ち受けた<ファン>は決してサポーターではなかった。そこには当然起こり得るべきブーイングのブの字もなかったからだ。あれでは、かえって選手たちが拍子抜けして屈辱を感じたのではないだろうか? 温かい声で迎えられた選手の中で、違和感を感じなかった者は代表の資格はないと思う。8年前にフランスから帰国した時、城彰二は水を掛けられたが、城はあれでモチベーションがかえって高まり、嬉しかったと後に告白してくれたことがある。
 日本の敗退後、「オーストラリアに日本の分まで頑張って欲しい」とテレビでアナウンサーなどが言っていたのも驚きだ。どこからそういう発想が出てくるのか、メンタリティーそのものが全く理解できない。それでもメディアから「ジーコ監督、日本代表、ありがとう」という声が聞こえてこないことだけでも、僅(わず)かな進歩があるのかも知れない。
 8年前、ベッカムがフランス大会決勝トーナメントでアルゼンチンのシメオネの挑発に乗り退場処分となった時、イングランドのメディアは「10人の勇者と1人の愚か者」というヘッドラインを掲げたが、日本のメディアにはそこまでの<愛情>を表現することが許されていないというわが国特有の事情も見えてきた。

 あの時、ベッカムは選手団と帰国せず、メディアや国民から追及を避けるため、米国に一時避難したほどだった。柳沢、高原、中村俊輔、そしてジーコや川淵キャプテンに、<愛情>ある言葉が投げかけられない日本メディアにも成長が必要だ。今大会でもイタリアが退場者を出して米国と引き分けた後、イタリアメディアは「11人の愚か者たち」という見出しでイタリア代表を叱咤していたのだ。

※1 クリテイティビティ・・・創造性、独創性

ブラジル戦終了後、ピッチに横たわるMF中田英に声をかける宮本(撮影・蔦林史峰)

西村幸祐(にしむら・こうゆう)
 1952年(昭和27年)東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科中退。在学中に第6次『三田文学』の編集を担当、80年代後半から主にスポーツをテーマに作家、ジャーナリストとしての活動を開始した。93年のW杯予選からサッカーの取材も開始。02年W杯日韓大会取材後は、拉致問題、歴史問題などスポーツ以外の分野にも活動を広げている。著書は「ホンダ・イン・ザ・レース」(93年・講談社)、「八咫烏(ヤタガラス)の軌跡」(02年・出版芸術社)など多数。新著は「反日の超克」(PHP研究所)。
 ホームページアドレスはhttp://nishimura.trycomp.net

ここからサイドエリア

 

このページの先頭へ

ここからフッターエリア