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中田泣けた、何やってんだ日本/F組

<1次リーグ:ブラジル4-1日本>◇22日◇F組◇ドルトムント

 勝てなかった。厳しい現実にヒデが号泣した。日本代表は22日の1次リーグ最終戦でブラジルに1-4で惨敗した。日本中の期待を集めた3度目のW杯は、1分け2敗のF組最下位であっけなく終戦。2大会連続決勝トーナメント進出という目標を逃した。試合後、最後の決意で臨んだMF中田英寿(29)が流した涙には、力を出し切れなかった悔しさが凝縮されていた。初出場した98年フランス大会から8年。中田英を中心とした黄金世代はついにW杯で輝くことなく、1つの時代を終えた。

 あふれるものを抑えきれなかった。どんなときも強気で冷静だった中田英が、ピッチで初めて涙を流した。突き指した左手親指の痛みも忘れ、すべてを出し尽くして走った。しかし、勝てなかった。何よりもチームの持てる力を出し切れなかったことが悔しかった。ロッカールーム横の通路でも、肩を震わせて泣いた。中田英のW杯は不完全燃焼のまま終わった。

 ブラジルに真っ向勝負を挑み、FW玉田のゴールで先制した。だが、前半ロスタイムにFWロナウドの同点弾を浴びて夢はかすんだ。「なにやってんだっ!」。激しいジェスチャーで中田英は味方を怒った。ミスの許されない試合で、また同じ過ちを繰り返した。初戦のオーストラリア戦で終盤に逆転された反省が生かされなかった。

 力を出し尽くせば、世界とも十分に戦える。欧州のトップリーグで結果を残してきた男は、日本人の能力の高さを実証してきた。だからこそW杯の結果に涙が出るほど悔しがった。「最大限(力を)発揮していれば、こういう結果になっていなかった」。試合後の言葉が、今大会の日本代表の戦いぶりを象徴していた。

 ぶっ倒れるまで走ったのか? 死ぬ気で戦ったのか? 初戦、2戦目と続いた午後3時の暑さなど、言い訳にしかならない。余力を残して勝てるほどW杯は甘くない。過去2大会で過酷な戦いを7試合戦い抜いた男は、この4年間ずっとチームに「闘争心」を訴え続けた。ボン合宿中の居残りシュート練習では、ちぎれんばかりに右足を振り続けた。背中からメッセージを発し続けた。

 その高い志が若手に届かなかった。実績、存在感ともに際立つ中田英は、チームの中では別次元の人だった。シュート練習を見た日本協会川淵キャプテンが「ヒデのレベルに合わせるとみんな壊れちゃう」と話したことがある。「ヒデさんは特別だから…」という若手選手もいた。一時は「自分が今の日本代表に本当に障害になるのならば、辞退してもいいとさえ思う」(公式サイト)と思い詰めたこともある。

 W杯期間中はピッチの外でもチームをまとめようとした。第2戦のクロアチア戦を3日後に控えた15日夜。中田英は率先して、選手だけの食事会をボン市内の和食レストランで開いた。普段はとっつきにくい男が、アルコールも手伝って、場を盛り上げた。「ヒデさんは、ちょっと酔っ払っていた方がちょうどいいぐらい」。若手選手の1人は言った。

 それでも他の選手との温度差は埋まらなかった。ブラジルに負けたことより、1次リーグ敗退より、チームが1つになって戦えなかったことが、日本の本当の力を出し切れなかったことが悔しかった。涙のわけは、そこにあった。

 W杯開幕をちょうど1年後に控えた昨年6月9日。成田空港近くのホテルで中田英は、この惨敗を想定したかのような警告を発していた。異例の「無観客試合」となったバンコクの北朝鮮戦を制し、世界で一番最初にW杯予選を勝ち抜いた翌日だった。「このチームにW杯を勝ち抜く力はまだない」。この言葉の意味を本当に理解していた選手はいただろうか。

 戦い終えたジーコ監督の言葉が中田英の思いを代弁していた。「アジアのレベルじゃダメなんだと言ってきたが、その言葉が間違いじゃなかった。W杯に軽い気持ちできた選手もいた」。日本代表は中田英やジーコ監督が求めてきた、戦う集団になりきれていなかった。

 W杯ドイツ大会は史上最強の日本代表メンバーがそろっていた。代表23人のほとんどが、10代から世界大会で経験を積んできた。96年アトランタ五輪でブラジルを破り、99年ワールドユース選手権で準優勝。そして02年W杯決勝トーナメント進出…。W杯経験者11人を擁する今大会は、黄金世代と呼ばれる彼らの集大成になるはずだった。

 ところが世界を経験し、欧州リーグで戦ってきた男たちが本領を発揮する場面は少なかった。むしろ世界と新たな力差を痛感させられるシーンが目立った。「球際の強さとかで差が出た。日本をアピールする大会だったのに…」と稲本。中村は「1人1人の技術をもっと上げないといけない」と話した。成熟度を増すはずの男たちが、後退した印象すら受けた。

 02年大会で黄金世代の豊かな才能は、窮屈な規律に縛られた。トルシエ監督の歯車のように正確なチーム戦術に、想像力にあふれた個性が埋没した。初の決勝トーナメント進出の快挙は達成した。しかし、選手たちに快挙の大きさほど、満足感や達成感はなかった。個性と才能を解放すれば、日本代表はさらに進化する。06年大会へ選手もファンも期待した。

 ジーコ監督は「個の解放」にはうってつけの指揮官だった。監督デビュー戦となった02年10月16日のジャマイカ戦で中田英、中村、小野、稲本の「黄金の中盤」を実現させた。想像力と技術に秀でた4人を同時にピッチに送り込んだ。ピッチの上で選手に自由を与え、観客を魅了するサッカーを目指した。

 一方で与えられることに慣れた選手たちは戸惑った。自由から何かを表現する能力に乏しかった。昨年5月、アブダビ合宿で選手だけのミーティングを開いた。相手ボールを奪うポジションの議論で中田英が強い口調で言った。「そんなことは監督が決めることだろう」。しかし、監督からの指示はなかった。選手間で約束事を決めなければ前進しない危機にあった。

 海外組急増の弊害もあった。98年フランス大会後、中田英がセリエAのペルージャへ移籍。成功を収めた。その活躍に刺激を受けた黄金世代が、争うように欧州へ飛び立った。02年大会前に小野と稲本が移籍。大会後は中村、高原、柳沢らが続いた。守備陣をのぞく日本代表の主力が、顔をそろえるのは年間数試合に限られた。しかも試合数日前に合流する「ぶっつけ」の繰り返し。チームとして熟成する時間はなかった。

 さらに欧州組には厳しい現実があった。レベルが高く。選手層の厚い欧州リーグでは出番が限られた。実際、チームで主力として活躍していたのは中村だけだった。ここ数年は中田英さえ挫折を味わい苦しんだ。出場機会のない小野や柳沢は今季、Jリーグに復帰した。実戦で成長する機会が足りなかった

 黄金世代がドイツで輝くことはなかった。10年南アフリカ大会で、この世代は30代に突入する。事実上、史上最強の日本代表は今大会が終えんとなる。「まだまだ力が足りなかったということを実感した。自分たちの力を素直に受け止めて、次につなげていくしかない」。中田英の最後の言葉が、次なる黄金世代への糧になる。【西尾雅治】

[2006年6月24日10時10分 紙面から]


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